| 地球/トランスカルチュア
現在、われわれは、文化と伝統の喪失の危機に瀕しているといえよう。それは、建築界にかぎらない。人類共通の地球規模での話である。そして、もちろん、われわれの所属する建築界にも、その波は押し寄せてきている。ここ10数年の間に世界中で大きな社会構造の変動が起こってきている。それを、グローバリズムと一言でいっていいだろう。それは、われわれ全員が実感しているところである。しかし同時に、このままでは、ローカルであることで成立してきた文化と伝統は、'遅かれ早かれ、喪失してしまうという未来も知っておくべきである。今、われわれは、建築家として、この状況に対して、何かをしなければならない責任があるし、おそらく、それをしなければ、建築家という職能は、どんどん、その社会的意味を失っていき、消滅してしまうかもしれない。
そもそも、文化や伝統といった類いのものは、その地域もしくは入々に特有のローカルなものであり、閉ざされた中で、長い年月をかけて、はぐくまれてきたものである。そして、時には、そこを通りかかる人々が残していく様々な刺激や情報を吸収し、もう一度、その内部で熟成していくことで、独白の文化や伝統をつくりだしてきたものである。それは、グローバリズムとは、根本的に、相反する概念である。グローバリズムは、地球上の全てのものを、瞬間的に、世界中に伝え、世界のどこへでも、同じ情報を伝えていく。そして、今まで、外部との交流なしに、熟成してきた文化や伝統の垣根を壊し、世界に広め、一気に、消費されていき、その後には、表面上の、文化と伝統が残っているだけとなる。そこには、もはや、本来の姿はない。
ただし、私が述べていることは、みんなで垣根を作ってその中で閉じこもり、外部とのコミュニケーションを断とうという保守的な蔚ではなく、かといって、思いきり垣根をとりはらって、すべての文化や伝統が消費されていくのをみごろしにするという話ではない。そのどちらにも、未来はなく、消滅していくか拡散していくかという違いだけで、共に、そのアイデンティティそのものの意味がうすれていき、結局は、存在していないことと同意語になってしまう。グローバリズムは、今までの時の流れのスピードを何十倍にも何百倍にも速くする。あっという間に、そんな小さな垣根などはのりこえられてしまうだろうし、一方、その勢いは地球全体にまで及ぶ。もはや、地球自体が一つになってしまう。その事実に直面しながら、アイデンティティを失わないように、文化と伝統の喪失という問題を、克服するべきである。そのために、文化を乗り越えていく
(トランスカルチュア)必要がある。
昇肇/イマジナリーストラクチュア
グローバリズムを認めた上で、地球規模の文化と伝統を構築していく問題を進めていくにあたり、一つの社会構造の特性を紹介しておきたい。こういう広義の構造のことをイマジナリーストラクチュアと呼んでいる。グローバリズムでは、すべての垣根は乗り越えられ、地球上の情報が瞬間的に全員で共有されるようになる。すると、しだいに、そのなかから純化して突出してくる部分が集約的にでてくるのである。しかも、それは、突然変異的に進化してくるのである。それは、情報が共有されればされるほど、人々の選択するものがしぼられてくるという構造である。それは分散化により、集約化が起こる構造である。
例えば、グローバリズムが世界中にいきわたる以前には、それぞれのローカルな地域で情報が異なるため、世界全体として考えると、それほどの独占状態にはならず、それなりに分散していた。それが、グローバリズムの影響により、世界全体に、同じ情報がいきわたり、ローカル性がなくなると、どんどん、ほんのひとにぎりの情報だけが選択されるようになり、それ以外の情報は、世界中に伝わったとしても選択されなくなる。そして、まるで、地球全体が一つのローカルな地域になってしまったかのようになっていく。
ここで私が着目したいのは、地球全体という大きな領城であるが、しかし、それでも、たかが、一つの惑星にしかすぎないということである。つまり、昔、一つのローカルな場所でつちかわれてきた文化や伝統というものを考えると、この地球という実は最も本来のローカルな場の中で、新しい文化や伝統というものが培われていっても、なんの不思識もないということなのである。この地球という惑星の中で、どういった文化や伝統を構築していくのかという問題である。しかし、それは、本来の意味でもっとも根本の単位における文化である。その文化の中では、今までとは、比較にならないほどの範囲のさまざまな要素の関係性の中で相互作用が行われ、そこから何かが純化してくるのである。そして、それが、さらなる相互作用へと展開していき、その繰り返しの末、次なる伝統が生まれていくのである。
私は、多数間の動的な相互作用の中から、突然、すべてが一つに純化されるようになる瞬間のことを昇華と呼んでいる。このとき、さまざまな要素または関係性が、一つの不可分なものになるのである。これは、単なる足しあわせではなく、純化なのである。その違いは、一つの別のものへと相転位していることである。それは、白然淘汰のように、一つのものへの収斂としての取捨選択ではなく、それは、すべての要求をある瞬間に満たすものである。その結果は、単純でありながら、かつ、優雅なのである。それは、私にとっては、もっとも、ナテユラルなものである。その瞬間、エントロピーが下がったかのようである。これは、芸術、文化だけでなくすべての入間の営みに共通する構造である。この特質をしっかりと理解し、そのうえで、今もっている文化と伝統を失わないように、一方、保守的になり過ぎないように気をつけなければいけないのである。
不可分/ファインアート
文化と対となる単語に、文明がある。もし、文化をつくっていく術を芸術、文明をつくっていく術を技術といえるとすると、この対比は、芸術と技術ということにもなる。われわれは、この芸術と技術という境界がなくなろうとしていることにうすうす気づいている。
もちろん、その差はこれからもありつづけるであろうが、その枠組み自体は消滅し、いつのまにか、技術だったものが、芸術になっていく。しかし、半分技術で半分芸術であるというような、分離可能な状態なのではなく、集約化の結果、不可分な純化したものへと進化していくのである。
この状態をもう少し、わかりやすくするために、例をあげるとすると、それは、20世紀の芸術と呼ばれているスポーツが適切かもしれない。そのスポーツにおいてはシナリオをはるかに越えた数々のファインプレーがこの昇華に相当する。それは、柔道のような個人スポーツから、サッカーのような集団スポーツまで、どのスポーツをとっても存在する。そこには、シナリオはない。日頃のトレーニングを積み重ね、一つ一つの動作を繰り返し鍛える。そして、ある瞬間、ある特殊な条件のもと、ファインプレーが、突然、おこるのである。その瞬間、すべての要素の空間性と時間性が消滅し、一つの純化した不可分なものになる。あとで、なぜできたかとか、どうやったかとかを根掘り葉掘り聞かれてもその選手は答えられない。すべては一瞬のしかも無意識の不可分なことだからである。そのとき、芸術と技術は、一体化する。いわゆる、ファインァートということであろうか。われわれ建築家は、常に技術をみがきつづけ、技術と芸術を同時に扱っていくことができる職能として、その2つが昇華する瞬間、もしくは文化と文明が昇華する瞬間を、社会の中で起こすことができるだろうか。もしできれば、伝統は、一体になったものの中に、不可分なものとして過去と未来を合わせ持ちながら進化していけるのである。
このファインアートという無意識の範疇のできごとを、どうやって意識化していけるのであろうか。それこそが、現代において、建築家に求められていることであり、そのことで、建築家の職能の社会的な意味を再構築していくことができるのである。繰り返すと、このグローバリズムの時代において、われわれ建築家に託された課題とは、際限なく拡散していく時代における、文化と伝統の喪失の危機に対する責任である。文化とはローカルなものであり、伝統とはシームレスなものである。それは、地球という本来のローカルな単位を場としながら、次世代の文化をどうやって築いていき、また、次世代の伝統としてどう伝えていくかという問いである。
原点/ナチュラルセンス
そのためには、まず、われわれに組み込まれている経験や教育を分解することからはじめることが必要である。いままでの既成概念を分解することから。そうすると、われわれは原点にもどっていくことができる。もっと大きな枠組みの中で再構築されるために。昇華の後にやってくる感覚を私はナチュラルセンス=“いままでにないあたりまえなこ”と呼んでいる。それは仮説である。それは、すべてがフラットでハイポテンシャルになった状態から、突如、浮かび上がってくるものなのである。できてしまったあとは、あたりまえなことなので、白然に受けとめられてしまうのであるが、なぜか、今までなかったことなのである。その瞬間を経験するためには、一つのコンセプトを決めてそこから全体を構成するようなトップダウンの社会構造ではなく、もっと、フラットで複雑な動的な関係性を構築する必要がある。フラットな関係性を保ちながら、それぞれの要素がハイポテンシャルでありながら、動的に相互作用している状態。このときの各要素にあたるものは、ひとりひとりの人間であり、職能である。異なった職能がお互いに緊張感を保ちながら、フラットで動的に相互作用することから、ファインアートが生み出されてくるのである。
職能は、その責任の範囲のことである。そして、現代においては、その職能間の境界もオーバーラップしてきている。ということは、責任自体の境界も同様である。そして、その個々の能力はハイポテンシャルである。われわれは、まず、建築家という職能を分解し、それぞれの部分のポテンシャルを個々にあげていき、オーバーラップしていく。私白身、その中では、構造という視点から現代の建築を再構築したいと考えている。そういう意味で、私は白らの職能を建築家としているが、それは、従来の建築家ではなく、構造という部分のポテンシャルの高い建築家という意味である。この構造という部分は、現代において、おそらく、もっとも技術革新の恩恵を受けている部分であろう。この意味での建築家とは、本来の建築家のことであり、それは、原点に戻るということである。そして、私以外の違う部分のポテンシャルの高い建築家と動的に相互作用することで、そのポテンシャルは結実する。そして、おそらく、もっとも原点としての建築家とは、棟梁であり、そうなると、施工と設計の境目すらなくなる。それは、すべてをひとりでやるといった懐古的な意味ではなく、現代では、チームの中でコラボレーションしながら、シンクロすることで、この現代の棟梁を目指したい。
実は、グローバリズム自体を可能にしているのは、技術革新、それも、コンビューターテクノロジーの発達である。それは、ここ10数年の間にめざましく進歩してきた。そしてついに、それが、大掛かりな特殊なものではなく、カジュアルでだれでもできそうなレベルにまで浸透してきている。この事実が意味するところは、いままでイメージの世界だったものが.現実の世界になってきたということである。つまり、もはや、イメージと現実の境界もなくなりつつあるのだ。このことで、今まで、それぞれの職能での特殊な能力が、もっとカジュアルになり、職能間の情報を相互作用させられるようになり、再構築できるようになったということである。昇華にとって、もっとも重要な条件であるフラットで動的な相互作用を可能にする状況がそろってきた。今、われわれは、この昇華を通して、イメージを現実化していくために何のポテンシャルをあげるべきか、どう社会に対して貢献していくべきかを解明する時期にきている。そうでないと、この地球から、伝統は喪失していくのだ。
意識/オリジナルフィギュア
ナチュラルセンスが昇華により生み出される時、判断している何か、それは、われわれが無意識にもっている不可分のイメージである。それは、われわれ人間にとってもっとも本来的に備わった能力である。その何かを、私は、オリジナルフィギュア=源姿とよんでいる。それは、姿という言葉が、形とその内部のあり方を同時に指し示しているからである。オリジナルフィギュアとは、無意織のなかにある、不可分な、何かを目指している白己である。それは、目指していることはわかり、あることもわかるのであるが、それが何かはわからない。ただ、言えることは、判断だけができることである。それがなにであるかを追究するには、それを常に意識化していくことである。オリジナルフィギュアを意識化していくことが、そのまま、文化と伝統を昇華させることができるポテンシャルを高めていくことになるのである。
重要なことは、この姿をどう意識化していくかという点である。それは、実は、私も含めた全員が、おそらく、永遠にたどりつくことのできないくらい、深いものであり、そして、たかが、今わかっていることなど、そこには、とうてい、及ばないくらい浅い意職である。まず、気づかなければいけないことは、気づいている外側がかならずあるということであり、それは、意識化という作業によって、どんどん、その意識できている領域は、広がっていくにもかかわらず、その源の姿は、それでも、だれにもわからないということである。
であるから、われわれが、唯一、進歩しつづけられる方法は、個々のアイデンティティを動的に相互作用させ続けることだけであり、その結果、自らのアイデンティティを次々と更新し続けることである。そして、進化しつづけさせ続けることのできるポテンシャルの高いチームをつくり相互作用を続けていくことである。常に、いきいきと変化しつづける文化や伝統をこの地球という一つのローカルな場で再構築しつづけることこそ、建築家の責任であり、社会における意味ではなかろうか。この社会における役割を見失うと、建築家の未来はないであろう。
さて、最後になるが、私の作品を通して、今、やっていることを、事後的ではあるが、少し述べよう。私の中で判断しつづけていることは、このナチュラルセンスというものが、どういう姿として目の前に現われてくるかという点であろう。全ての作品を通して、共通しているのは、特に変わったことをしているわけでもなく、どこにでもあるようなことの積み重ねであり、その相互作用を、とにかく、昇華のプロセスが出るまでくりかえすようにしていることである。その結果は、一つ一つ全然違うものに見えるかもしれないが、それは連続したものである。そのために、もっとも、大切にしていることは、このオリジナルフィギュアをあきらめないで追求し続けることである。この特集でも、何作品か掲載されているので、それらの中にそれぞれのナチュラルセンスを感じてもらえ、そして、そこに共通した時系列のオリジナルフィギュァをかぎとってもらえると幸いである。 |